哲学は、最も基本的な“考え”を批判的に吟味し、場合によっては“別の考え”を提案する学問です。
たとえばどんな勉強も知識の獲得を含むけれど、哲学では知識の獲得を“善いこと”と理解します。
するとその行為は手段としてではなく、それ自体に価値が与えられるのです。一旦そう理解されたものは、いつでもその価値にあずかることができます。つまり勉強は大学を卒業した後も価値を持ち続け、一生その人のためになるのです。失われないもの、それが哲学の真価です。
「哲学とは何か」という問いへの答えは実に多様です。そのような答えの中から興味深いものを紹介します。これらの答えを見れば、「哲学はこうでなければならない」という紋切り型の理解がいかに不適切か、わかると思います。「 」内の太字が哲学者の発言で、その下は紹介した教員によるコメントです。(ただし、発言は必ずしも正確な引用ではないこと、お断りしておきます。)
「人は生きている限り、今をどう生きるかという問題を避けることができない。今生きているということが問題を作る。」
哲学の営みは、私たち一人ひとりの今をどう生きるかという問題に深く根を下ろしているということを、省みさせてくれる言葉。今生きている人で、哲学と無縁な人は、ただの一人もいない。
「哲学とは①きちんとした考え方を用いて、存在するもの=在るものを知っていくこと。また②しっかりとした基礎に立って、自分の生き方の問題を考えていくこと。」
哲学は①物事を知り②生き方を考える営みだ。それは私たちの日々の生活のすべてに関わっている。でも物事を知っていくためにはすじ道に従って考えることが、生き方を考えるときには根っこにさかのぼって考えることが、ともにものすごく大切だ。私たちは小さい頃に比べれば、色んなことを何となく知っているし、色んな生き方のあることも何となく知っている。でも大事なことは、物事をはっきりと知り、しっかりとした根っこにつながった生き方を求めていくことではないだろうか。ただ一度しかない、自分自身の生を、借り物ではない生き方をしてみること、哲学はそのことに深く関わっている。
「哲学することなしに生きてゆこうとするのは、まさしく、目を閉じてけっして開こうとしないのと同じです。」
他人の言ったことを鵜呑みにするのでもなければ、適当に目を閉じてやり過ごすのでもない、敢えて自分の思考に基づいて物事を根本から新しくそして生き生きと考えなおしていくこと、そこに哲学の醍醐味あり、とのデカルトの至言。
「本気で哲学者になろうとする者はだれでも、一生に一度は、自分自身に立ちかえって思いをこらし、そして自分の中で既存のすべての学問の倒壊とその再建を試みなければならない。」
偉そうな、そしてもっともらしい顔をして近寄ってくる物知り顔の「学問」といったものに対しては、しょせん黙って言いなりについていくしかないのだろうか。フッサールは、とんでもないと力を込める。ここには、人間精神の底知れない自由が、迫力満点に語られている。そう、哲学はその意味で、破壊と再建を繰り返しながら、人間が自由を体得する自由な遊び場だ。そういえば、われわれも小さかった頃、誰に命じられずとも、積み木を飽くことなく崩しては作り、作っては崩していたっけ。
「哲学とは、おのれ自身の端緒を絶えず更新していく経験である。」
哲学とは、思索を通じて、わたしたち自身の根源・存在理由・在り方を常に新しいものへと作り替えていく〈経験〉である、というフランスを代表する哲学者による明快な宣言です。つまり、哲学することとは、わたしたちは新しい自分へと開かれていく可能性を発見していくことなのです。
「社会の変化と動揺の中で、あえて不確実な未来に挑戦することは、既存への懐疑と人生への信頼に根ざす自由な人間の営みである。」
これは説明不要かもしれませんね。しかし、ここでヒュームが強調しているのは、やみくもに既存のものへと反抗し、自分自身を過信するのではなく、徹底的に知性を駆使してやり遂げるべきだということなのです。
「人間が使用している言葉や記号こそが、人間自身なのである。」
これは逆にとても不可解な謎かけのように見えます。しかし、この主張の背景には、人間とは、〈自己〉の枠にとらわれず、全宇宙へと向かって開かれた存在であるという世界観があります。
「哲学の主要な目標は、神と魂についての知をえることでなければならない。というのは、この知は、魂を鼓舞することによって、われわれが神を愛したり、徳にかなった振る舞いをしたりするよう仕向けることができるからである。」
哲学は、知を通じて愛や徳にかなった善き生へと人を鼓舞することを目指すべきという気高い哲学観。愛や善さのない生がいかに貧しいかに思いを致すなら、哲学を敬遠することなどどうしてできるのかと思わずにはいられない。
「哲学との関わりは人生の日曜日と見なされるべきである。」
言うまでもなく、日曜日はキリスト教では特別な意味をもっている。ヘーゲルのこの発言はその特別な意味を踏まえたものだが、それよりも、哲学が日曜日と同じくらい待ち遠しいものなら、哲学を敬遠することなどどうしてできるのかと再び問わざるをえない。
「哲学とは望郷の念である。どこにいてもくつろいだ気持ちでいたいという強い欲求が哲学なのだ。」
どこにいてもくつろいだ気持ちでいるなんてできるわけない、と言うなかれ。一見不可能に見えることを可能にするのが哲学なのだ。
「自説の正しさを主張することは自己保存の精神の発露であると言ってよいのだが、哲学の関心事はまさしくそうした自己保存の精神を破壊することにあるのである。」
哲学はどうすれば自己保存の精神を破壊することができるかを探究する。しかし哲学は単純な自虐の精神を説くのではない。この破壊によってこそむしろ自己が最大限に尊重されるはずではないか、と提案するのである。
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